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国定古跡である台湾総督府鉄道部は忠孝西路、塔城街、鄭州路、延平北路の間に所在し、交通部台湾鉄路管理局に所属します。1884年に台湾巡撫の劉銘傳はイギリスとドイツの顧問を招聘し、淡水川の埠頭で鋳鉄所、鍛工場などを含む機械局を建設し、銃砲火薬を製作していました。1895年、機械局は日本軍隊に接収されて、台北兵器修理所に変えられ、弾丸、信管、小銃丸、藥筴、船舶、鉄道鉄橋などを製造していました。後に台湾砲兵工場と改称されました。1900年に所属が陸軍省から鉄道部に移され、同年に台北工場と改名されました。1908年台湾西部の縦貫線鉄路が開通のため、鉄道の運輸量と車両の修理工事が増え、翌年に台北工場は東に拡張され、車両修理と塗装の新工場が建てられました。1915年、南にある建物が解体され後、建てられた鉄道部の庁舎は台北工場と並び、南庁舎と北工場という配置になっています。敷地内保存されていた40棟近くの建物は1934年に松山に移られ、また2005年のMRT建設工事及び2013年の古跡解体工事を経て、現存する10棟の中に八ヵ所は法定文化資産と指定されています。

一、 鉄道部:1918年5月に鉄道部庁舎の第一期の工事が完了され、清朝の機械局四進衙門の代わりになり、鉄道部各課室の事務室となっていました。鉄道部の庁舎は煉瓦と木の混構造で、外回廊の床は軌道のコンクリート構造である。正面に二つの塔の間に入り口があり、一階の壁は街の曲がりに沿って曲面になっています。二階は柱二本で支えられる幅の二メートルのバルコニーがあり、差し掛け屋根にドーマー (dormer window)が設置されました。一階のロビーは弧形の天井と柱列で空間を定め、木造の中央階段は二階に通じます。二階の室内の天井と壁は漆喰彫刻で装飾され、台湾では珍しい楕円形の天井です。

二、 食堂:「職員食堂」と「経理課会計係事務室」この二つの建物から構成されています。「職員食堂」は1932年に建てられ、二階建ての木造の西洋建築です。設計者不詳、鉄道部工務課が設計し、総督府営繕課技師の栗山俊一と紺田隆太郎が工事担当とも言われています。「経理課会計係事務室」は1941年に建てられ、同じく二階建ての木造建築で、設計者と営造者不詳。庁舎と食堂は階段と廊下でつながっています。食堂の屋根に取り付けられた金属ブラケットは精巧に作られています。建物本体は再生木材を多く使用しました。室内の天井と梁の外観はドイツのスタッコ工法で塗装されました。一階の外壁は重なり合うドイツ式の下見板が特色です。

三、 八角楼の男子洗面所:1919年に建てられ、一階建ての歴史主義建築です。職員は主に男性で、男子洗面所だけを建てました。屋根はスレートを使用し、主要構造部は鉄筋コンクリート造の中空八角柱で、上には換気口があり、外壁との間は八本の鉄筋コンクリートの梁でつながっていて、傘を開けたのように見えます。八つの便器は八角柱に周りに設置され、二本の辺に個室二個ずつがあり、浄化槽は洗面所の後ろに設置されました。砂利敷きの外壁は線で分割され、古典的な石造りの模倣です。

四、 電気室:1925年前に建てられ、機械の電力を提供しています。何回かの改造工事を経て、「南庁舎、北工場」の配置との協調性を配慮し、平面が曲線になっています。付け柱と煉瓦構造で壁が支えられ、ウッドトラス屋根に天窓が取り付けられました。

五、 工務室:1934年台北工場が松山に移られた後に建てたのである。一階建ての西洋式の木造建築で、長さ約44メートル、壁の八割の面積は縦すべり窓に占められ、採光に有効である。最初は工務課庶務係及び改良の課長室として、その後三回以上の間取り改造を経ました。建物の土台は防蟻コンクリートで打設され、外壁は漆喰の壁と下見板、寄棟造りの屋根に棧瓦が敷かれています。

六、 戦時作戦指揮センター:敷地内の北西側に位置する。1943年に建設され、設計者は鉄道部工務課技手の鳥巣英一で、鉄道部上位の部員の避難先でした。上下二層の鉄筋コンクリート構造で、上層の高さは7メートルで、防弾のため円錐に造型され、外の防護壁は国共内戦に造られました。入り口には防爆の鉄門があります。下層は地下に埋まれ、室内の壁には駅、橋、川、トンネルが描れている台湾鉄道の地図があり、換気口は地面につながっています。

七、 清朝の機械局遺跡:2006年MRT松山線の工事中に発見されました。石造りの壁は高さ2メートル、両面は石畳で、中には粘土と栗石で充填しました。地下約60cmの所に石板の古道が発見されました。この道は50cmごとに南北方向の帯状の石で舗装され、隙に栗石で充填しました。古い写真にうつっている石板の道の様式とは同じで、劉銘傳が洋務運動を推進していた時期に建設された機械局の関連建物です。

八、 台北工場:元車両修理工場で、1909年に建てられ、幅24メートル、南が工場内部、北が大稻埕に面し、それぞれ塔と妻側があり、弧形の妻側の後ろには換気用の天窓が設置されました。東と西側はそれぞれ六つの煉瓦アーチから組み合わせられ、修理する車両の通る道になっています。屋根は切妻造り、幅17メートルの西洋式の鉄筋トラスで、劉銘傳が洋務運動を推進していた頃にヨーロッパから購入した廃棄軌道です。熱間成形リベットで溶接接合した一代目の大稻埕台北駅の鉄骨構造、上に亜鉛板で敷きました。戦後は台鉄のホールになりました。工場内部に面している南側のはかま腰屋根と木造玄関が取り壊され、古典様式のアーチ回廊を建てました。弧形の妻側と天窓も解体され、三角の妻側に改造されました。鉄道が地下化後、市民大道を造り、道路を広げるため、北側の二つの塔と二つのアーチの空間も壊されました。MRT松山線が計画された後、台鉄は路線の通る所に所在するホールをMRT局に売り出し、取り壊す予定でした。ところが、専門家の調査により建築の歴史的価値が遺産として認定されたため、MRT局は専門家の関連調査を許し、工場の中に修理する車両が置く軌道及び栗石とコンクリートで構成され道床を掘り出し、ガラス繊維でコンクリート道床を再製して保存しています。

戦後の鉄道部は台湾鉄路管理局になり、都市更新計画で塔城街が1967年に開通した後、西側の鉄道部官舎とのつながりが切断されました。1992年に台北市政府より三級古跡に指定され、翌年に台鉄総局は台北駅の新築に引越しました。2005年に文建会は古跡調査と再生計画を東海大学と中原大学に委託しました。翌年に文建会と交通部と台湾鉄路管理局と国立台湾博物館との間には台湾博物館系統連盟協議書が結まれ、鉄道部の古跡修復と再生作業が本格的に始まりました。「鉄道部博物館園地」を基本概念として、周囲の都市景観と歴史発展を取り入れながら、現代的な展示空間を兼ねる多目的園地を建設します。2007年、八角楼、食堂、電気室、工務室、戦時作戦指揮センターが含まれる範囲は文建会により国定古跡に指定されました。台北工場と清朝の機械局遺跡はそれぞれ2008年と2010年に市定古跡に指定されました。2009年から台湾博物館が代理管理者となっています。計画中の鉄道博物館は古跡、鉄道文化、現代性に関わる展示に基づき、将来は西側の元機械局工場の範囲を取り入れます。